昨年にアップできなかった記事から。
今回も勝手に茨城応援ということで、12月に茨城会に参加した際にGo toを活用して密にならない歴史探訪に。
今回も勝手に茨城応援ということで、12月に茨城会に参加した際にGo toを活用して密にならない歴史探訪に。
まずはにしさんに教えていただいた、旧鹿島海軍航空隊のあった大山スロープへ。かつては水上機が湖面に下ったとされるスロープを活用し、現在はマリンスポーツのための傾斜路になっていました。
「斜面以外、何もありませんよ」ということだったのですが、周辺をうろついているうちに、記念碑を発見。水上機搭乗員を育成する施設だったらしく、本土防衛のための迎撃や哨戒飛行を行い、果ては沖縄戦時の特攻隊にも。阿見の予科練のような爆撃は受けなかったようですが、機銃掃射で地上整備員も犠牲になっているとのこと。20年ほど前にこの碑を建てた発起人の方は、すべて基地関係者で、老年を迎え、後生に伝えたかったのかな、と推察します。
側には、3階建ての司令部跡や第一指揮所跡、燃料庫跡などの遺構が残っていました。すぐ脇を道路が通っており、水上バイクやボートを積んだRV車やサイクリングの若者たちが(多分、由来など知らずに)楽しそうに走っていました。この平和を大切にしなければ。
続いて、周辺の史跡をググったところ、20分ほどの距離に、江戸崎城跡があるとのこと。秋に表磐梯を訪ねた時に、摺上原の戦いの跡を通ってきたのですが、そのとき、破れた蘆名義広が、実兄の佐竹義重を頼って、この地へ。そこで居城にしたのが、江戸崎城でした。
もう、400年以上前であり、かつ、関ヶ原による佐竹氏の移封に伴い、廃城になっていただけあって、特にそれらしき遺構はなく。本丸跡には小さな神社があって、わすかにそれを伝えるのみ。
そこから、本命の鹿島神宮に向かう途中で、偶然に神宮寺城跡を発見。戦国時代より古い南北朝期に、伊勢から海路で陸奥に向かった北畠親房が常陸で難破し、この地の地頭に助けられ、一時、籠もった城だそうで。すぐに、北朝方の佐竹氏に駆逐されています。
竹藪の奥に遺構があるらしく、あまり期待せずに徒歩で向かったのですが・・・これが思いもよらぬ立派な空堀跡!100m四方程度の本丸を囲んで、2mほど高さの土塁と空堀がしっかり残っており、北畠推后の碑も残っていました。
最後に、潮来経由で霊験あらたかな鹿島神宮へ。初めての参拝でしたが、かなり広い敷地を本殿、奥の院など回ってきました。コロナ禍を避けるためか、初詣ならぬ年末詣での参拝者もいて。お守りを購入するのに、15分待ちでした。























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